キリスト教

お父様の御聖誕には血統転換のプロセスは無い

「救援摂理史の原理観」を語り終えた直後に、「今日はマリアにとって最高の日だった」と語られたと聞いている。そのことの意味は、本来イエス・キリストを命がけで守らなければならなかったのが、ザカリア家庭とヨセフとマリアであったが、結果として守ることが出来ずイエス・キリストは十字架に掛けられてしまった。

キリスト教

人間は如何にして罪を自覚したのだろうか

信仰による神様との関係を軸にした人間それぞれの関係(文鮮明真のお父様は「縦的、横的関係」と規定されている)が欠落した民主主義の脆弱性は、支配を企てる者達によってマスコミを使って大衆を扇動しコントロールすれば、民主主義をツール化することができ、一滴の血も流さずに法律を駆使し全体主義に傾かせることができてしまうところにある。さらに、そのような状況下ではほとんどの大衆は全体主義が浸透していることを全く見抜くことが出来ない。

キリスト教

被支配からの目覚め

私には心の底にキリスト教的ベースがあり、そのことは自身の内心に向けてもそうだが、絶えず神様と悪魔(サタン)、そして善と悪を見分ける視点があるということである。そして悪は善をもってでしか克服できない事をつくづく実感する。究極は悪は善に恰も飲み込まれるように消えてゆく、これは甘い期待感や希望ではない確信だ。それではその善の根源は何か、何処から来るのか、そのことを文鮮明真の父母様(以下愛と尊敬を込めて”お父様”と記述する)は、神様の真の愛と語られた。悪の根源である悪魔(サタン)を真の愛で昇華させることが神様の究極的な御業であるということを語られた。

キリスト教

人は必ず幸せになれる

文鮮明師の七男の文享進牧師(以下文牧師)は父である文鮮明師から後継者、相続者として推戴され上述した生き方を体現されている方である。文牧師が語られる宗教哲学を背景とした多くの教養は、文鮮明師の理念を紐解くうえで私も多くの示唆を受けている。文牧師は宗教哲学的教養と共に、卓越した行動力で多くの若者たちを指導している。当ブログで掲げている「IRON ROD」は、文牧師の精神とそれに基づく行動の象徴であり、私もそれに近づきあやかりたいと掲げた「おまじない」である。