「自然現象と心の構造」カール グスタフ ユング 著 W.パウリ 著 第一章から抜粋
- 数は人間が発明あるいは考え出したものであり、それゆえ量の概念にすぎず、あらかじめ人間の知性によって量の概念に入れられなかったものは何も含んでいないということである。しかしそれと同じく可能なことは、数が見出されたり、発見されるということである。その場合、数は概念だけでなく何かそれ以上のもの、つまりどういうわけか単なる量以上の何かを含んでいる自律的な実体なのである。概念と違って、数は心的仮定ではなく、数それ自身であるという性質、すなわち、知的概念よっては言い表せないような「かくある他ない」という本質性に基づいている。こういった条件のもとでは、数には、まだ発見されずにいる諸性質が簡単に付与されるだろう。私は、数が発明されたものであると同時に、発見されたものであり、結果的には元型に類比できるような相対的な自立性をもっているという見解に傾いていることを告白しなければならない。
- 数は、それで元型と共通して、意識に先行して存在する。元型もまたアプリオリな理想形として、発明されるものであると同時に発見されるものである。元型が発見というのはその無意識的な自立的存在については知られていなかったからであり、発明されるというのは、その存在が類比的な概念構造から推論されたからである。
トマス・アクィナス『神学大全』稲垣良典著 講談社学術文庫からの抜粋
- Ⅵ 通常の探求の順序で言えば、「神は存在するのか」という問いの後「神は何であるのか」という問いが続くはずであるが、トマスは明確に「神についてわれわれはその何であるかは知りえない」ので、われわれは神については専(もっぱ)ら「神は何であらぬか、いかなる仕方においてあらぬか」を考察しうるにずぎない、と言う。このように、神についての認識は否定を通じてのみ可能である。という基本的姿勢を堅持しながら、神は単純である。完全である、善である、無限である、万物において存在する、不変である、永遠である、など神にのみ帰せられることの可能な「属性」が枚挙され、最後に第十一問題で神は一であること(一性)が考察された。
- トマスは「神が一であることは三つの点から論証される」と述べ、神の単純性、無限な完全性、世界の一性という三つの点からして、神が「多」であることの不可能性、つまり多くの神が在ることは不可能であり、神は「一」でなければならないと結論する。問題は「神は一である」と言う場合の「一」であるが、けっして一、二、三…….と物を数える場合の「一」ではないことに注意しなければならない、神は単純であることが考察されたさいに、神は物体ではないことが真先に確認されたのであるから、神について物体、つまり量的なものが数えられるさいの「一」があてはまらないことは明白なのである。
- では「神は一である」と言うときの「一」はどのように理解したらよいのか。トマスは「神は一である」ことを考察した議論の末尾で「そしてこれが神である」(Et hoc est Deus)と言い切ることによって、明快にこの問いに答えている。※「五つの道」はすべて、われわれを「万人が神と理解する者」「万人が神と呼ぶもの」「われわれが神と呼ぶもの」で導いてくれるところで終わっていたのに対して、その後に続く神のみに帰せられることの可能な諸々の「属性」を考察することを通じて到達された神の「一性」は、いわば神のアイデンティティーであり、「神と理解されるもの、神と呼ばれるものを指すにとどまらず、端的に「神」を指しているのである。言いいかえると「神は一である」ことの論証は、「神は神である」という端的な(しかし同語反復ではない)肯定をかのうにするものであり、そこでは「五つの道」よりはより完全な仕方で神存在の論証が成立しているということができるだろう。
- 言うまでもなく、「神は神である」と肯定することができると言っても、「神の何であるか」を完全に把握しているのではない、つまり神の本質を理解しているのではないから、それもまた否定によって根本的に限定された神の認識であることに変わりはない。実はトマス自身、第十一問題で「これが神である」という、神のアイデンティティーを捉えたとも受け取られる言明をしたのに直ちに続いて、次の第十二問題(神はどのような仕方で名づけられるか)においては、それと正面から対立するような仕方で、人間知性による神の認識が極度に制限された、否定的なものであることを強調しているのである。一つだけ例を挙げよう。
トマス・アクイナスの「神様を表現(トマス・アクイナスの決定的な違いは、トマスは神様を理解することができなかったので、てきなアプローチに」するために用いた「一」という数は、量としての、私達が肉体で経験的に知っている数ではなく、経験以前から(ユングはa prioriアプリオリ⦅先験的⦆という、同じくアプリオリな元型と同じ位置づけをしている)
ではこの量を物質のみに置き、その「量の拡大こそが幸せに繋がる」「量の際限のない充実こそが豊かさなのだ」という信念は、いったい何が起点となっているのだろうかを考えてみれば、その起源は人類始祖の堕落まで遡るだろう。ある賢人曰く、人を不幸にする三つの要素それは「自己憐憫」「責任転嫁」「依存」だそうだ。この三つの要素を持っている限り、永遠に幸せになれないそうだ。確かに幸せが訪れたとしても、このような
創造は、情報量からの視点で観れば、創造が進めば進むほど被創造態は拡大してゆくので情報量は多くなる。情報量が多くなればなるほど矛盾が生じるので、情報の意味は多次元化される。数理は原理体系に付随する要素であり、被造態には数理的要素が必ず存在する。なので被造物は、数理で規定出来るということになる。お父様は、度々私達には理解できない「数理」のみ言を語られた。このみ言は、堕落世界の数理を量的側面でしか捉えられないという意識基準では到底理解できないと私は感じている。例えば、放射性同位体元素は118発見されているが、これは私たちの狭い意識の範囲から来る信念体上での狭い数理体系でのはなしで、ある研究者によれば、恐らくこの10倍以上存在し、100%利用できるといっている。、その内実用化されているのは、全体の30%~40%程度と言われている。私たちは日常便利を享受している文明の恩恵だが、しかし、神様の全体性から見れば、ほんのごく僅である。
人類始祖の堕落も創造原理から派生した、創造原理がエンジンとなり起こった、愛による堕落だった。堕落原理があるわけではない。
旧家庭連合は未来を塞ぐな。周期表を作ったドミトリ・メンデレーエフの名言に、「科学の役割は、自然の中に一般的な秩序が存在することを発見し、その秩序を支配している原因を見つけ出すことである」
