
この記事は2025/02/12 21:10に投稿したものです。
私たちが伝道をするにあたって知っておきたいこと
はじめに
私は神様に導かれ献身し、所属していた部署で初めに与えられた責任分担が伝道部門であった。当時所属していた青年支部には、約500名位の兄弟姉妹がおり、その内120名~150名位の献身者達が、青年支部を支えるため、ほぼ24時間365日お父様のために一心不乱に歩んでいたと言っても過言ではない。
だからといって伝道に疲れたことはなく、むしろ結果がでないことに悩み苦しんだことを、今も忘れることはできない。全ての兄弟がこのような思いだったかは分からないが、そんななかでも些細なことや、ほんの小さな喜びと希望を探し、このような私にも神様やお父様が訪ね下さり、尊い出会いを実感させて下さったことが、私にとっての天に積んだ宝物である。
当時は街頭や訪問から伝道された方を、最初にお連れするところがビデオセンターというサロンのようなところになっており、そこから、更に深く学びたい方が、二泊三日の、二日間みっちりと原理講論の内容を、直接講師から講義を受けておこなわれるセミナー参加を経て、七日間のトレーニングに参加します。そこで文鮮明真のお父様(以下愛と尊敬を込めて”お父様”と記述)が証され、お父様が再臨のメシアであることが知らされました。これが入り口でさらに献身するまでには約一年ほどの期間をかけて準備し、トレーニングされてゆきます。
しかし、はじめに導かれてから、神様のみ旨のために歩むための決意をし、世俗的な人生と決別するまでの流れの詳細を、ここで客観的に書いたとしても、恐らく本意は伝え切れないと思うので詳細は割愛する。今これを読まれている方がこれをどう評価すかは分かりませんが、当時この流れ全てに経験的にかかわって感じたのは、多くの兄弟姉妹は、神様と真の父母様のために、身命を賭したとしても、そこにかける価値を見出さずして行くことができない道を決意した人達であったことは間違いのない事実である。彼ら彼女らがおこなった選択は決して軽いものではないことだけは断言する。
今伝道が叫ばれている中、かって伝道に携わったものとして、お父様のみ言を中心に自身の中で整理してみようと思いから本ブログを書いている。尚、お父様のみ言の引用などは、一部分1987年教育局(現世界平和統一家庭連合組織内部署)から出版された「伝道」を参考にさせていただいた。
ローマ人への手紙8章14節【新改訳聖書2017】
ピリピ人への手紙2章13節【新改訳聖書2017】
お父様が立てられた霊の子の基準とは
お父様というお方を深く理解するためには、まずお父様が語られる伝道の基準がどのようなものであったかを知る必要があり、お父様のご生涯がイエス・キリストの公生涯と同じであり、生涯全体全般に渡ってこの精神基準が貫かれており、このことの意味の理解と理解の前提がなければ、真のご家庭が受けた受難と事情を理解することはおおよそ困難だろうという思いが私の中に常にあるので、その視座にも立って伝道を考えてみた。
特に強くお伝えしたいのは、お父様が語られた伝道の目的の一つには、我々が※神様の心情、父母の心情を復帰することであり、自分の信仰の子女(霊の子女)に対して自分が生んだ子供以上の心情的関係を持たなければならないという蕩減的心情基準が示されている。自分の伝道した人が、み旨のために喜んで生活しており、自ら生命を捧げて死んでもいけるほどの基準を立てなければならないという趣旨を語られておられる。
※神様の心情を復帰するということとは、エデンの園でアダム・エバを通して成されるはずだった天国理想を、私たちは小さな立場で、伝道を通(蕩減的な意味としての伝道)して、私たちが神様の心情を復帰することを通して、天国理想を成し遂げることができなかった恨みを解いてさしあげることができること。
また伝道の聖書的根拠はこうである。特に最初(家庭を持つ前)に復帰すべき霊の子女3名を、お父様は伝道の原点とし、このような意味を語られておられる。それはアダム家庭の復帰であり、アダム・エバの成長期間に完全に侍るべきであった3人の天使長の基準を復帰しなければ、アダム、エバともに堕落する前の立場に復帰した個人完成の道に出発できない。なのでイエス・キリストは個人完成を成すための基準を家庭を持つまでに立てなければならないために3弟子12弟子を生命をかけ復帰された。
カインとアベルは各々天使長とアダムの代身として立てられ、子女であるカイン、アベルが一体化することによって、父母であるアダム、エバおよび天使長は復帰されてゆく。
アベルは徹底してカインの前に神の愛と犠牲の道を貫き、カインの恨みを解いて、神様の前にカインを復帰してこそ堕落前のアダムの立場を復帰することができる。善の天使長の再創造とアダムの再創造が伝道の本質である。

またお父様が語られた伝道の重要な観点の中の一つに、第二アダムであるイエス・キリストが成し遂げることができなかったことを、イエス様とイエス様的状況、形態を再現し本来成し遂げる(神様は神様の創造理想を人類始祖アダムという肉の衣を着て成し遂げるはずだった形態、状態)べき内容を成し遂げ、その土台でなければキリスト(救世主、救い主、メシア)である第三アダムとしての道を歩むことができないことが伝道の中心にあったことが※原理的合理性で深く理性的に推論できる。
※原理的合理性とは、哲学や自然科学で使われている一般的な合理性、観測対象、観測領域を観測主体である人間が認識できる領域に限定し、理性的に論理的に規定するという意味での合理ではなく、対象領域が簡易な表現だが、目に見えない超感覚、超自然な領域までも含んだ範囲まで適用される原理を通して理性的に論理的に規定する意味で私は使っている。この原理こそがお父様が発見し解明された簡易な表現だが、霊界と地上界に貫かれている法則、公式、公理の大本、根源である。
※更に、原理的合理性による規定は、真理を体恤するうえで何故有効なのか、何故お父様が我々に下賜して下さったのかを聖人ではない凡人の私は、原理の入門書である「原理講論」の以下の一節で理解することができた。「信じるということは、知ることなしにはあり得ないことである。我々が聖書を研究するのも、結局は真理を知ることによって信仰を立てるためであり、イエスが様々の奇跡を行われたというのも、彼がメシヤであることを知らせ、信じさせるためであった。」原理講論【第17版改定1987年】総序29P。霊肉両世界を一元的に言語化し説明することの困難さは壮絶であったことだけは何とか私にも想像できるが、真理の解明と言語化作業に何故挑まれたことの結論は、お父様という方が何を目指されていたことの究極は万民救済にあったと推論できる。
※真理の言語化、文脈化の困難さの理解として適当かどうか分からないが、しかし、次元の違う比較であることを承知の上であえてご紹介すれば、江戸後期の国学者本居 宣長先生は、当時誰も読めなかった日本の聖書といわれる「古事記」を、日本固有の考え方や感じ方こそは「古事記」にあると考え、35年かけて「古事記伝」を表したといわれている。私は本居 宣長先生を評価できるほどの人間ではないが、「古事記」の復活の困難さを知識人の多くの方々が認めていることは事実である。
真のご家庭を批判される方がおられるが、お父様は完全に子女様を捨てただけではなく、ご自身の家庭自体も捨てた立場(捨てた基準)に立って歩まれたと観(身体感覚を含んだ感じる感覚も含む)るべきで、真のご家庭を守り、子女様を守り育成するのは復帰された天使長的立場である復帰(サタン中心世界から神中心世界に移されること)された全食口である。それが人類始祖アダム家庭の蕩減復帰(形態を再現し、本来成されたことによって創られる情の世界)である。そのようなことが上述のみ言から原理的合理性で推論できる。
しかし、当時私はそのことを多くの食口達に伝えなければならない事情から、理屈では理解していたが、体恤はしていない。何故かといえば答えは実に簡単な話で実践してこなかったからだ。少なくとも伝道対象者を愛し屈服するために費やした時間も多くあったと思うが、お父様の基準は立ててこなかったし、到底立てれるものではないことは心のどこかで理解していた。今さら感じることは、私がおこなっていたことは、しょせん真似事だったというのが真実であろう。その思いは私自身が心の中で、否定しようがない事実としていまもある。
お父様がご自身の全て一切を神様と私のために捨て、祭物のような生涯を歩み示した真の愛故に、私はお父様が私の父であるこという実感がある。その上で、尊敬してやまない家庭連合の食口達にお伝えしたいことは、私は、あなた方はお父様の尊い、愛する者をすべて捨て愛した兄弟姉妹として、またあなた方は、お父様を真の父として侍り、どんなに苦しいことがあったとしても、神様とお父様を捨てなかった兄弟姉妹の皆様を心から尊敬しております。そんなあなた方を神様がお父様の衣を着て愛したあなた方を訪ねていかないはずはないです。神様の御前に心を素直に開いてお父様の声を聞いてください。人生は思うほどそんなに長くはないです、このまま中途半端で終わらせるのでしょうか。神様が真直ぐに降りてくるところを訪ねてください。そして真実を探求し知ってください。
どんな人でもすべての人はやがて霊界に旅立つ。ダライラマは、残念ながら人は死を知ってはじめて人生を真剣に考えると語られた。またある人は、人生は一度しかないことを悟った時に、真剣に真面目に二度目の人生というものを考え歩むだろうという方もおられる。それは、一度死にそうになり、死線をさまよいながらも幸運にも再び生きることが与えられた人のことを言っているのである。
聖書理解は解釈に負うところが大きいがその理由は、イエス・キリストが直接語られたみ言を口述筆記されたものは少数存在するが、量も少なく完全ではないのと、そもそも原本が存在しない。またパウロの手紙の大部分の文章は、パウロの弟子たちが口述筆記していたのだと言われているが、パウロ自身はイエス・キリストの12弟子のように、生活を共にしながらイエス・キリストから直接み言を給わってはいない。いずれにしても聖書は語られたみ言を聞いた者が、書き写した※1写本をまとめて編纂されたものであり、イエス・キリストの正確なみ言ににふれることができないだけでなく、量も僅かであるため当然だが解釈が生じてしまう。新約聖書だけでも約2500以上の写本が存在しているといわれている。
※1採用される写本によって解釈に違いが出てくる例を一部紹介するが、引用される多くの写本の中でも代表的なものに「三大写本」がある。アレキサンドリア写本(大英図書館所蔵)、シナイ写本(大英博物館が347葉(旧約聖書199葉、新約聖書148葉)、聖カタリナ修道院が12葉と14の断片(1975年発見)、ライプツィヒ大学図書館が43葉、そしてサンクトペテルブルク・ロシア国立図書館が3つの断片を所蔵)、バチカン写本(1457年以来、バチカン図書館が所蔵)である。プロテスタントの牧師の中にはヨハネの黙示録5章9節が採用している文言が、「彼ら」なのか「人々」なのかの違いが、携挙解釈が生まれるか否かの背景の根拠の一つになっていると語っていた。その違いはどこからくるかといえば、採用された文言の引用元が、シナイ写本とバチカン写本なのか、アレキサンドリア写本なのかによると語っていた。
これに対してお父様のみ言と行いは、原理に裏打ちされたものであり原理そのものである。私たちはまず原理の全体と部分の※2主体と対象、因果と相関の関係性で十分に良く理解し、原理を通してお父様のみ言を原理的合理性と整合性で精察し、思考することを通してみ言の理解を深めてゆくことが可能となる。よく霊性と知性(理性)を分けて主張する方がおられるが、この二つはペアであり、主体対象関係といえる。原理講論にも「神霊と真理」という文言がたくさん出てくるが、霊と肉はペアであり、神霊が極まれば知性(理性)も極まるというのは、霊と肉によって引き起こされる作用によって調和が起こり引き上げられるからだ。
※2よく見かける議論として、主体と対象が入れ替え可能であると主張する方を散見するが、この議論はちょっと考えてみればその奇妙さが分かるはずなのだが。例えば育児を例に挙げてる方がおられるが、夫も妻に代ってミルクをあげる行為をもって育児の主体たる立場の妻に代って、育児の対象たる立場である夫がミルクをあげることもあるのではということをもって、男=主体、女=対象の固定化に問題意識をもって、男女における主体と対象の関係性の崩れを主張し、主体対象関係は、入れ替え、交換が可能であると主張しておられるが、主体と対象関係には、縦的なものと横的なものが原理の主張では、はっきり分かれており、そのことは統一思想原相論(原相論の原相は神様の属性をいう)でも説明されている。簡単に説明すると、縦的な主体対象関係は絶対的な関係性であり、冒頭お父様のみ言にもあるように、縦的世界は無形であり、あるのは神様の属性のみである。それにたいして横的主体対象関係は相対的関係と言っている。先ほどの例で言えば、いくら夫が育児で大変な妻に代って子供にミルクを与えたとしても、ミルクをあげおむつを取り替えに没頭しているうちに、夫自身が気が付かないうちに夫の霊肉の属性が女性になることはない。この議論は一般的にも主客問題として未だ解決できてはないが、原理では問題は解決している。更に、この議論は宇宙の根本に関わる問題でもあり、もし仮に縦的領域で主体対象関係が相対的に入れ替え可能であり、交換可能とするなら、宇宙秩序の成立が存在しなくなる。存在論的に対象をなしているものが、あたかも主体のような振る舞い、挙動をしてしまうとことによって、進化論が肯定されてしまい、真理性が与えられてしまう等、深刻な問題が引き起こされてしまう。それはどういうことかといえば、対象の振る舞いや、挙動によってその影響によって主体があたかも対象化されてしまい、全体の軸や目的等がぶれてしまい全体全般の秩序崩壊がおこると想定される。
※2母を訪ねてアルゼンチンまで出稼に旅だったマルコが、生活苦から闇バイトにハマり、これなら簡単に大金を稼げて、母を助け家族を助けれるとお金欲しさにもし犯罪に手を染めてゆく話に、次々と出会う災難からくる事情から、当初の純粋な動機で旅立ったマルコの人生が、どんどん変質し母に会わずに違ったストリーに変わっていったとするならするなら、「母を訪ねて三千里」から「人をだまして億万長者」に変わってしまうような話に似ている。個々の事象に影響を受けたとしても、受けたことの自覚がなく、最終的には良心の呵責さえ感じなくなり正当化されてしまうことが推論できる。
※2またこの議論は、古くはプラトンとアリストテレス、唯名論と実在論の議論、ゼノンのアキレスと亀のパラドックの誤りに関する論証問題、哲学が扱う時間と空間問題、ポストモダン等もこの問題を含んでいるが一般的には未だ解決できていない。フランの哲学者アンリ・ベルクソンは、ゼノンのアキレスと亀のパラドックの誤りを指摘した説明を私なりに原理的に咀嚼してみると、ゼノンは時間と空間(哲学では時間を空間的には扱わない。物理学での時間の最小単位はプランク時間だが、これだと時間は点であり、ドットである。しかし時間はひとつひとつが切り離された点として扱わない。もし仮に時間が点であるなら、お父様が語られる蕩減は成立しない。過ぎた形態を空間的に今に移動したとしても物理空間的に同一なものは再現することはできない。お父様の蕩減を理解するには、より本質的な時間的領域が何かを理解する必要があると私は考える)を、ゼノンは空間(物理世界)に軸を置き、時間(霊的、感情、経験)世界を規定していることを問題提起している。主体対象関係が入れ替え可能、交換可能と主張する方々は、お父様が生活指針として毎日唱和するようにと指示された家庭盟宣五番をどのように捉えているのだろうか。お父様と韓鶴子氏の縦的位格が入れ替え可能、交換可能だとするなら天宙は崩壊する。
※2冒頭のお父様のみ言「人間を創造した目的」を引用すれば、神様と人間の関係で見れば、神様には形はなく無形なる「型」のみがあり、統一思想では「鋳型」と表現されているものだ。最先端のAGI技術研究では、人類に共通する型、パターンを機械的、数学的、物理的に学習させ自律的に認識させ判断し経験し動作、挙動を機械にさせることを目指しているが、これと恐らく「量子コンピューター」の組み合わせで、いわゆる「シンギュラリティ」の到来を予測している。シンギュラリティはレイ・カールワイルが提唱している「収穫加速の法則(人間と、それに続くテクノロジーにおいて、進化の速度は本質的に加速してゆく)」という思想が土台になっている。彼らがすぐにでも可能として目指している技術は、「常温核融合」「人間の寿命が200歳を超える(タンパク質の組成を解析し人工タンパクを作り実現)」「全ての病気が無くなる(イーロンマスクはDNAをダウンロードする技術を開発し、これを実現しようとしている)」等、トランプ大統領が進めている次世代世界覇権の中核的技術にもなっているが、現在中国との激しい壮絶な戦争が始まっている。しかし、これらは全て神様はご存じであり、原理の入門書である「原理講論」と聖書にも描かれている世界観は、お父様の原理を土台としなければ理解できない。恐らく以下に書かれている原理が想定している天国的世界観を反転させた世界観で見れば、現実を中心に見れば最終的この先行き着くサタン世界のサタンを中心とする偽天国の頭脳は、AGI技術を搭載した量子コンピューターとなり、偽天国の頭脳となり、その時人間は機械の奴隷のようになっている可能性は否めないし、すぐそばまで来ている。
さらに自然や宇宙の存在や、存在によって引き起こされる事象を、原理との適合的な説明をすることを通して、神様の存在までも証明することが可能になる。そのような意味において、自然現象や現実世界も原理の観察対象として見れば、※3真なるものを全て明らかにすることができる。なので原理には解釈は存在しない、理解のみであると結論付けることができる。
※3賢人たちの悩みは、「人間」とは何かがまだわかっていないことに対する深い悩みであった。結局、自分自身がわかっていない者が、自分以外のものにリーチしてはたして何がわかるのだろうかという、至極当たり前の合理的結論に至ってしまう深刻な悩みだった。お父様が、そんな賢人達に下賜し給う内容は、「人間とは何か」に対する明確な回答であったことが、今はっきりと理解することができる。
よって私は二代王様にお父様は何故王冠を与えられたのかに解釈は存在しないと考えている。素直に受け止めるだけだと私は考えている。天聖経(三、ジャルジン七大宣言と新エデン創建 4.第四宣言:宿命的提案解怨宣言p1672)の第四宣言宿命的提案解怨宣言の中でお父様は、「神様と私たちは父子の関係です。父子の関係は宿命です。父母のすべての恨(ハン)と問題を子女のみが解いてあげることができるのです。」と語られている。
「宿命」とは何かを考えてみると、一般的にも「宿命」と「運命」は違った意味をもち、「運命」は変えられるが、「宿命」は変えることのできないものといわれている。
ではお父様の語られる「父子の関係は宿命」とは何か、神様と血統で繋がった父子関係における変更することができない、生命が受肉する前に存在する神様の真の愛の「先有」から来るものである。「愛」「生命」「血統」を通じての神様との繋がりであり、関係性であると私は解している。
「提案」とは何かを私なりに理解したているものを簡潔に要約してみた。アダム、イエス・キリストと神様の創造目的を完成できず、神様はそのもどかしいご心情を誰にも語ることが出来なかったばかりではなく、ご心情を吐露したとしてもこの地上でそれを理解し受けとめる事ができる人物がいなかった。復帰摂理において神様と人間が宿命的な父子関係であることを誰かが言わなければならなかった。アダムとエバの堕落以降、神様と血統で繋がった子女こそが人間であるということを言うことができないし、言ったとして理解することができる基台が地上に無い神様の深く悲しいご心情を身に染みて(私の語彙の不足により適当な文言で表現できない平易な表現になってしまった事をお詫びいたします)深く理解しておられたお父様は、誰からも教えられることなく主体的に提案という形で神様に尋ねおこなうことを通して、神様の深きご心情を解怨されたのが神様の真の子女である文鮮明真の父母様にほかならない。
先ほど来申し上げている通りお父様の伝道の基準は、お父様がご自身の全てを恰も捨てられた如くに歩まれ、代わりに3弟子12弟子を愛して屈服し立てられた。これらをさらに拡大し、準備されていたキリスト教の基台を蕩減復帰なされてきたということを改めて精察してみれば、捨てた子女様の中で唯一二代王様のみがお父様を慕い求め繋がり、宿命的父子の関係の立場から、お父様に対して、お父様の恨みを解いて差し上げる提案的な歩みをされておられると私は原理的合理性をもって理解している。
では第四アダムとしての私はこの宿命的父子の関係を土台として、お父様の恨みをまず知り提案し何を行うことによってお父様の恨を解いて差し上げ、解放圏と釈放圏を成して差し上げることができるのかを求め、私の生涯の目標として生きることを目指している。
祈りの主体を変えた韓鶴子氏の致命的な誤り
私が家庭連合の皆様にお考え頂きたいことは、お父様がご子女様を捨てるようなお立場で生涯を生きられ、代わりに愛されたのは誰なのかということです。お父様の信念の核心にある中で、サタン屈服の中心にあるのは「最も愛したい方々を捨て、最も愛せない者たちを愛する」ことであり、お父様は言葉でこれを表明し、実践してこられたということは、食口であるならばみ言を通して共通理解しているはず。愛する者を犠牲にし捨てた代価が我々食口であることを忘れないで頂きたい。このことを私たち食口は絶対確信し、信念として持たなければならないと強く感じている。
その上で年頭に祈りの主体を変えた韓鶴子氏の致命的な誤りをご指摘する。祈りの主体を変えるということがどれくらい深刻なことなのか、理屈はともかく直感的にもわかるはず。ここまできたら韓鶴子氏の内心に隠されていたものが露になり、もう誰でもわかるはずだ。お父様がイエス・キリストに出会い真理解明の路程を歩まれ個性完成し、公生涯を出発され教会創立以前から現在に至るまで、神様が何方の衣をまとって歩まれたのかを深くお考えいただきたい。何方が神様と一体となり、何方が神様のご心情とご意思を骨髄から理解し、何方が霊肉一体の思いとして意思決定し、何方が不足な人類に代わって蕩減条件を立て、何方によって神様のもどかしく哀切極まる情を身にし染み入るほど骨髄まで分かり、そこから湧き上がる神様のご意思と一致すように全体を動かしてきたのは一体何方なのかをお考え頂きたいと強く申し上げたい。
天使長ルシファーを南米ナビケレのホテルアメリカーノホテル14号室で屈服させたのは何方なのか。もし天使長ルシファーがお父様に屈服していなければ、トランプ大統領は既に暗殺され、プーチーン大統領は早い段階で西ヨーロッパに反撃の戦術核を報復として発射していたはずだということの想像はそんなに難しくはないはず。あなたが「聖母」を称するならば、国際情勢とアメリカ大統領選挙に少しでも関心を持つべきでは。更に、トランプ大統領が就任を待たず、ものすごい勢いで働いており、就任後に誰の目にもわかるように大統領令に署名されている内容と事実に関心をもっと持つべきではないのか。背後にあって、それらすべてを成した天地の主体は何方なのか。そういったものに一切関心のないあなただということは確かだ。祈るということは、祈りの主体を決定することであり、曖昧さは一ミリも存在しない。一人称「わたし」の主体をどこに置くのかというのが、祈りにとってとても重要なことであることを知ったうえで変えたというならば、私が祈りの主体に置いた存在が、私と重なり合う行為なのだということを知ったうえでおこなったことであるならば、神様はあなたに働くことはありえない。私がどんなに肉体を通して過酷な蕩減条件(生贄、断食、敬拝等)を立てたとしても、祈りの主体たる神様が私を顧みなければ絶対に働かないことを理解した上で、祈りの主体を変えるということが何を意味するのかお分かりなのかを問いたい。
ウクライナ戦争が西のユーラシア大陸の端で起こっていることがいったい些細なことなのか、目の前にある現実のほうがもっと大きいと意識の蚊帳の外に置いたとするならそれは大きな間違いである。お父様は神様の救援摂理が記されている聖書に大変忠実な方であったはずなのに、韓鶴子氏は何故聖書から目を背けるのか、あなたが毎日唱和している家庭盟誓八番に何と書かれているのか、成約時代とは何かを問うてみたことがあるのか、神様の約束は聖書からのものであり、旧約の約束の核心は「アブラハム契約」と「シナイ契約」ではないのか、イスラエル国旗を注意深く見れば何が描かれているのか。上と下のラインは何を意味しているのか、イスラエルはチグリス・ユーフラテス川とナイル川の間は神がわれわれに約束した土地であり、イスラエルにとってそのことは古代の話ではなく今なのだ。そんなイスラエルの「大イスラエル構想」に対して、何故イランは抑制的なのか、世界的に起こっている不可思議な現象にあなたはなぜ無関心なのか。「聖母」というファンタジーで心満たす前に現実を直視し、何方が最悪の事態を防いでいるのかを祈ってみるべきだ。
プーチーン大統領は神様を恐れる方であると私は確信している。彼は「エゼキエル戦争」に加担は絶対にしないだろう。天宙の主権者は何方なのか、イエス・キリストと完全一体となられたお父様だということを、私は確信している。反キリストによる未曾有の大患難の時を、聖書は「終わりの日」と言っている。大患難の終わりにキリストが地上再臨された後に、この地上に実現する「千年王国」が新約の核心である。家庭盟誓八番に出てくる「成約時代」は間接主管圏における成約時代ではない。※1999年10月10日に宣布された、第四次アダム圏時代以降の、直接主管圏を意味する「成約時代」であり、第四アダムとしての自覚と信念がある者たちの肉の衣を着て、お父様が働かれ「メシア的王国」即ち「天一国」の成就を目指すのが成約時代であり、神様が人間に約束した尊い契約である。的外れな祈りは神様は聞かれることはない。
※1998年2月2日と記載いたしましたがこれは誤りで訂正いたしました。天聖経【2003年7月7日初版】成約人への道 第四章成約人への道 二、摂理的総決算と真の御父母様の大宣布12.第四アダム時代(ニ十節)宣布(1999年十月十日、ウルグアイ)p1669。
列王記第一18章21節~【新改訳聖書2017】

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