人間は如何にして罪を自覚したのだろうか

人間は如何にして罪を自覚したのだろうか

RWC78
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この記事は2024/07/13 8:16に投稿したものです。

文鮮明総裁 講演文「宇宙の根本を探して」1996年8月1日世界平和家庭連合創設会議 閉会晩餐会 ワシントン・シェラトンホテル

 格式あるこの壇上から、このような話をすれば失礼だと思われるかもしれませんが、実感のわく話なので、一つの例を挙げてみましょう。皆様も毎日、朝起きてトイレに行かれることでしょう。大便をするときマスクをして用を足されますか。笑い事ではなく、まじめな話しです!

 もし、ほかの人がそばで用を足して、そのようなにおいを漂わせれば、すぐに鼻をふさいで何万里でも逃げ出すはずですが、なぜ自分の大便のにおいは、そのまま嗅いで、平気で座っていらるのでしょうか。それは、自分の体と一つになっているので、自分は大便を汚く感じないのです。

 皆様、幼いとき、鼻くそをほじくってなめてみたことがありますか。その味は甘かったですか、しょっぱかったですか。しょっぱいですって?その味を知っているところを見ると、皆、経験者ですね!

 なぜ、その鼻くそを汚く感じなかったのでしょうか。それは、それがまさにわたしたちの体の一部分だったからなんです。世の中の誰も分からなかったことをレバレント・ムーン(文鮮明総裁ご自身)が初めて発見したのです。皆様、咳をして痰が出れば、ごくっと飲み込んだりもするでしょう?

 ここに列席なさった大統領の皆様はいかがでしょうか。そのような経験はありませんか。取り澄ましていないで素直に答えてみてください。なぜ、汚く感じないのでしょうか。それは、皆、一つになっているからなのです

一つになっていれば見抜けない

 信仰による神様との関係を軸にした人間それぞれの関係(文鮮明真のお父様は「縦的、横的関係」と規定されている)が欠落した民主主義の脆弱性は、支配を企てる者達によってマスコミを使って大衆を扇動しコントロールすれば、民主主義をツール化することができ、一滴の血も流さずに法律を駆使し全体主義に傾かせることができてしまうところにある。さらに、そのような状況下ではほとんどの大衆は全体主義が浸透していることを全く見抜くことが出来ない。

 ※例えば、ロンドンにあるタヴィストック人間関係研究所は、プロパガンダの作成と普及を行う組織としてスタートした。また、トインビーは、ウェリントン・ハウス(タヴィストック人間関係研究所の前身)のことを「嘘の工場」と呼んだ。ここを話題に挙げるとある動画サイトでは何故か100%バンされるらしい。

 ではなぜ大衆の多くは見抜けなくなってしまうのか?文鮮明真のお父様(以下愛と尊敬を込めて”お父様”と記述)のみ言によれば「一つになっているから」ということになる。民主主義、資本主義、法治主義等の理念は元々は長い時間をかけて人間の内面から出てきたものであり、それらが崇高なものとして、私たちにとって良いものとして広く受け入れられたなら、誰も疑うことなく受け入れてしまい一体化してしまうという人間が本来的に持っている性質と原理的構造に由来するとも語られている。一度結ばれてしまえば、何ら違和感を感じなくなってしまう霊肉意識構造ができてしまう。そんな状態で社会が動いてしまい調和してしまうと人間だけの力だけでは脱出は困難であるということを誰よりもよく知っているお方こそが神様である。

 これからお話しすることは決して荒唐無稽な話ではなく、神様の創造の秩序あるいは創造の原理を踏まえた話であり、それらは宇宙全体に貫かれている公理の前提にもなっている話である。

 まず身近で起こっている直近の話題に関しても、上述したお父様のみ言を引用し説明できる。2016年トランプ大統領が当選し、その前後から「ディープステート」を連呼し現在では「ディープステート」という言葉は広く世界で認知されるようになってきたが、当初は陰謀論の類として一蹴されていたと記憶している。

 ※私はトランプ前大統領が示しておられるディープステートの定義を正確に理解していないが、私がここで使っているディープステ―トの定義は、ヨハネの黙示録で御使いがヨハネに語っているヨハネの黙示録17章12節の「あなたが見た十本の角は十人の王たちです。彼らはまだ王権を受けてませんが、獣とともに、一時だけ王としての権威を受けます」であり、またヨハネの黙示録17章13節では「これら王たちは一つ思いとなり、自分たちの力と権威をその獣に委ねます。」と語っている「十本の角」と「獣」である。これらを現代に当てはめてみると、ダボス会議では「ステークホルダー」と呼ばれ、トランプ前大統領は「ディープステート」と呼び、ウクライナ戦争を仕掛けた「ネオコン」と「軍産複合体」であり、ワ○○ン騒動では国際医療機関と「ビッグファーマー」であり、その下部組織である各国家の行政機関となり、その背後には「ブラックロック」「バンガード」「ステート・ストリート」等の金融機関が存在し、更にマスメディアがその繋がりと、行為を全て覆い隠している。「十本の角」と「獣」はまさにそれらの合意組織と私は考えている。

 世界最大の資産運用会社「ブラックロック」は既にウクライナの農地30%保有していると言われており(あくまでも都市伝説)、世界中の優良企業に投資をおこなっている世界トップのグローバルカストディアンである。我が国の首相岸田氏はこの会社のCEOと何故かしら頻繁にお会いしているようだ。

 何故トランプ前大統領の言動に多くの一般大衆が違和感を感じるのか。何故「ディープステート」という言葉を陰謀論という的外れなレッテル張りに乗ってしまうのだろうか。その理由は意外と思われる方も多いと思うが、私は以前から「ディープステート」の最大の受益者は私達大衆自身であると主張してきた。実は私たちは「ディープステート」と一体であり、なんと私自身が「ディープステート」の一部分を担っているので見抜けないでいると考えている。仮に見抜けたとしてもそこからの脱出には痛みを伴い、不安と恐怖が襲ってくるので、抜け出るのは容易なことではない。

 2024年7月7日は東京都都知事選の投票日であったが、小池百合子現都知事が当選された。小池知事はファクトベースで言えば、全国自治体でどこよりも早く2015年からLGBTQを推進し、理解増進と言って公的教育に働きかけてきたし、学歴詐称疑惑もあり、公約不達成率ダントツトップでありながら、圧倒的な勝利を成し遂げた。このブログをご覧になっているあなたがもし覚醒している方であれば、この事実を深く考えて頂きたい。お父様のみ言をあえて強引に引用し適用すれば、東京都民の多くの方々と小池都知事は一つになっており、一体化しいるので悪く見えないし、悪いところが気にならないことになる。

 しかし、このようなことは単純な一般大衆の情弱問題(情報発信者からみれば情報の未達問題)ではないと私は考えている。フランスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールFerdinand de Saussureは言語の定義をこのようにおこなっている。視覚や聴覚で認知できるものを「シニフィアン」とし、簡単にいえば言語でいう所の「音」である。そして、それに結びつけられている概念を「シニフィエ」いわゆる「意味」とした。しかし、漢字を使う東洋では文字を記述する場合、外形上の「型」や「形」も考慮しなくてはいけないと思うが、今回は話を単純に分かりやすくするためこの議論は含めないことにする。

 ソシュールをご存じの方も多いと思うが、あらためて確認すれば、言語における「恣意性」と「線状性」を発見し言語学の公理をつくった方である。このソシュールに引き付けて考えたいのは、情弱問題は情報の受け手側の情報不足という情報量という量的問題、「シニフィアン」的問題ではなく、「シニフィエ」的問題であるということである。

 それでは「シニフィエ」的問題とは何か、「シニフィエ」は単語の「意味」であるが、ソシュールがいう「意味」を受け入れ理解するにはやはりソシュールが規定した概念「ラング」に触れる必要がある。「ラング」とは抽象的なもので、文章を見た時に相手と同じ意味を思い浮かべるための規則と規定している。ではどのようにしてソシュールが言う聴覚や視覚を通して入って来る「音」や「記号」に対して、皆が同じ意味を思い浮かべてしうような集合的な規則が出来てしまうのだろうか?このことをお父様は明らかにしている(今回は長文になるため割愛する)。

「ウクライナ戦争継続のための日米共同支援スキーム」の本質を見抜けない

ジャーナリスト山口敬之氏(以下山口氏と記述)は、安倍晋三元首相暗殺事件を一貫して調査報道し続けている方だが、岸田文雄氏自身の問題と岸田文雄政権の外交政策に関しても鋭い報道をしている。山口氏の調査によれば、日本国民は全く気付いてはいないが、日本は既にウクライナ戦争の当事者国であることは間違いないことを、山口氏の調査報道から読み取ることができる。そのことは、今年5月に岸田首相はゼレンスキー氏(彼は既に大統領の任期は切れており、選挙で選ばれていない現在は超法規的に国家指導者の位置に就いていると言っても過言ではない。なので実質独裁体制下にウクライナは置かれているので敢えて敬称を省く)との間に半年で7000億円10年で14兆円の無償支援に調印した事実からも分かるはずだ。

以下はゼレンスキー氏のXへの投稿の抜粋である。

 奇しくも時同じくしてまるで日米共同声明のような日米セットでのウクライナ支援を、敢えて「ウクライナ戦争継続のための日米共同支援スキーム」と名付けてその本質を山口氏の調査報道から見てみる。

 今年アメリカでは約9.4兆円ウクライナへの「融資」を上下両院を通過し決定しているが、アメリカが議会で決議したのはあくまでも「融資」であり、当然ウクライナはアメリカに対して返済義務を負うことになる。これに対して日本は「無償支援」(ゼレンスキー氏のX投稿では提供を意味するprovideと書いてある)であり、総額10年で14兆円であるといわれている。ところが、アメリカが議会で決定した融資9.4兆円の80%はウクライナを経由してアメリカに還流するといわれており、このことはウクライナ支援を何度も強く訴えていた前米国国務次官ビクトリア・ヌーランド氏自身がCNNのインタビューで直接述べているので事実である。但しアメリカの善良な一般大衆は恐らくこの恩恵にあずかることはないだろうし、ほとんどの方は知らないだろう。

 山口敬之氏は更に上述した日米ウ間での戦争継続支援スキームに関してこう解説しておられた。アメリカはあくまでも「融資」の形での支援であり、最終的にトランプ前大統領の決断に至った経緯も、岸田首相と下院議長ジェームズ・マイケル・ジョンソンJames Michael Johnsonとの会談後の結果を受けて、戦争継続支援スキームに了承したと見ていた。

 それでは岸田首相と下院議長ジェームズ・マイケル・ジョンソンJames Michael Johnson会談とは何だったのか、両者の間で何が話されたのか、これを読み解くための理解の前提は、トランプ前大統領はアメリカファーストであり、ロシアとの闘いで国家がほぼ壊滅状態でいつデフォルト(国家破綻)してもおかしくない国家に、アメリカ国民の血税608億ドル(約9.4兆円)の軍事支援を行うことを、優れたビジネスセンスを持っているトランプ前大統領がこれを許すわけがない。そこでそこにどんなからくりがあるかを山口氏が分析しているので、彼の鋭い合理的な見立てを見てみよう。

 まずウクライナは戦争勃発以降約2000万人が国外に避難しており、インフラも破壊され産業基盤も破壊されている。このようなウクライナに返済能力があるはずもないことは誰の目にも明らかなことである。このような国家としての体を成していないウクライナに融資することができる理由は、潤沢な資金と盤石な経済基盤をもち、対外純資産世界第一位の国がウクライナの保証人になること以外方法はない。

 ということは、トランプ前大統領はあくまでも日本が半年で7000億円、10年で14兆円を無償支援を確約したからOKを出したのであり、万が一ウクライナがデフォルト(国家破産)すればアメリカへの債務保証は日本が行うという確かな前提の上で了承したはずだというのが山口氏の見立てであった。これが正しければ、既に日本はウクライナ戦争においてアメリカ、NATOと共に戦争当事者国になるということである。しかし、一番の問題は日本国民は誰もそれに気付いていない、お父様が語られた「大便を汚く感じないのです」状態であり、直感的に何も違和感を感じない無関心状態になっているということだ。。

 2024年4月8日から14日まで、岸田文雄内閣総理大臣は訪米しアメリカ議会で演説をおこなったが、10日におこなわれた日米首脳会談では「日米安保条約」が強化された共同声明が出された。米軍による日本の自衛隊の指揮権強化である。このことは何を意味するのか、もし仮にアジア有事があれば日韓台を中心に東アジアで戦争がおこなわれることになるということだ。日韓台が戦争当事者になるということだ。私たちはウクライナをもっと研究しなければならない。日本のマスコミは一切報道していないが、ウクライナ戦争を仕掛けているのはロシアではない事は明かになっている。

 私達の国日本はいつの間にかNATO(北大西洋条約機構)に組み入れられたのかもしれない。NATOには言わずもがなだが集団安全保障機能があるので、同盟国の戦争は即ち自国の戦争になる。ウクライナでNATOが誰の目にも明らかに参戦すれば、日本もロシアと戦争しなければならないという仕組みが、私たちが見抜けないままに進行している。

人は罪を見抜けない

文鮮明総裁 講演文「宇宙の根本を探して」1996年8月1日世界平和家庭連合創設会議 閉会晩餐会 ワシントン・シェラトンホテル

 私たちは皆、朝、昼、晩と、毎日三食ずつ食べていますが、実は、私たちの口から三十センチほど下りれば、そこには肥料工場があるのです。毎日、三食ずつ食べて、その肥料工場に原料を供給しているのです。ワアー!そのことを知ったあとでも、箸とスプーンが口に入りますか。おなかの中に肥料工場があることを知りながらも、そのことを感じないで私たちは生活しています。なぜ、感じられないのでしょうか。それは、一つになっているからです。愛、生命、血統、良心があっても、一つになっていて完全にバランスがとれていれば、感じることができないのです。

 ですから、神様も相対が必要なのです。相対の必要性をここに見出すことができるのです。男性でも女性でも、独りののときは愛を感じることはできませんが、男性の前に女性が現れ、女性の前に男性が現れるときには、相対的に刺激的な愛と血統が雷と稲妻のように衝撃をもたらして問題を引き起こすこということを知らなければなりません。

 二性性相を構成する主体と対象間には「差異」がある。これに関して統一思想原相論では、「主体と対象の差異の根源は原相内の四位基台の主体と対象の格位の差異にあるとし、主体と対象の間においてのみ授受作用が行われる」といっている。すなわち格位の差がある所に授受作用が行われるということになる

 「差異」に引き付けて「物事の起こり」を考えて見れば、「能動者」と「受動者」がいて、「思う者」と「思われる者」や「起す者」と「起こされる者」等の主体と対象の関係性が存在する。未だ明らかになっていない「重力とは何か?」という問題も、主体と対象間の「差異」によるものだと私は見ている。

 宇宙や自然界を見れば、重力の存在は宇宙全体も含めた自然界の中で生きている私達にとっては否定できない属性であるが、これが一体何なのかの仮説はあるが、何故存在するかは現代の最先端物理学でもわかっていない。

 アインシュタインの「一般相対性理論」によれば、質量が大きい存在によってつくられる重力場の歪が周りに影響を及ぼし、比較して質量がより小さい存在がまるで転げ落ちるような現象を重力現象であると言っている。例えば太陽系のような惑星では地球の質量と比べれば太陽の質量はるかに大きく、太陽がつくる歪みに地球が飲み込まれ転げ落ちるような状態ではあるが、惑星全体のみならず宇宙全体の物理的均衡状態があるので存在しているようになる。この均衡状態こそが原理の「主体」と「対象」の「差異」と真の愛の「先有」から「作用」による調和、バランスされた状態ではないかと考えている。

 「罪」というものを考えた場合、「罪」とは一体なんだろうか、人間はどのようにして罪人であることを知ったのであろうか?という素朴な疑問が出てくる。私たちは再臨主であるお父様によって人間の「罪」の根源は「血統」にあり、聖書によれば人類始祖アダムとエバが犯した罪は「血統的罪」であると下賜された。

創世記3章1節~10節【新改訳聖書2017】

1、さて蛇は、神である主がつくられた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからもたべてはならないと、神は本当にいわれたのですか。」
2、女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
3、しかし、園の中央にある実については『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神はおおせられました。」
4、すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5、それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
6、そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
7、こうして、二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちために腰の覆いを作った。
8、そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
9、神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」
10、彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」

 血統的な罪の深刻さは罪との一体性にあり、自覚対象が自分自身にあるので客観化できないところにあり、先程から再三お伝えしている通り簡潔に申せば「一つになっているものは見抜けない」ところにあり、気付かないということにある。例えば私が私を詳細に説明しようとすれば、履歴書に書く程度の僅かな客観的な属性、例えば男性か女性か、出身地はどこであるとか、学歴等だったりするが、それだけでは私という存在全てを正確に相手に伝えることは困難である。そもそも私が私自身を理解できていない。哲学の世界では「嘘つきのパラドックス」という未だ議論が絶えない命題があるが、これは「私は嘘つきである」という構文があるとすると、この文を真なのか偽なのかを決めることができないというものである。私は嘘つきであることが正しければ、嘘つきが言っている言葉なのでこの文は嘘になる。また別な見方では、私は嘘つきだと正直に言っているので正しいと言えなくもないが、本人は私は嘘つきと言っているのでひょっとしたらこの発言自体も嘘で、本当は正直なのかもしれないとなり、結局真か偽かどちらかの結論は出せないことになっている。

 上述した構文の教訓としては、今のところ「言及しようとするものに自己を含ませてはならない」となっている。しかし世の中には頭脳明晰な人物がおり、一度その人物が悪魔サタンにリクルートされれば、サタンの肉体を持った実体代理人になってしまう。その代表的人物として第一に私が挙げるのはジョージ・ソロス氏である。彼の天才的な悪魔サタンの頭脳によって編み出された「再帰性理論」によって世界は悪魔サタンの一時的支配状態に現在なっていると見ている(今度詳細を解説する)。しかし彼の悪魔的知恵にヨハネの黙示録では小羊は勝利すると書いている。

 人類歴史の中で唯一聖書のみが人間の罪と罪によって誘発された行為としての罪について、深く読み込めば読み取れる内容が書かれており、最終的には再臨主であるお父様によって罪の根本的な内容が明らかにされた。

 聖書には根本的な罪に関する詳細な記述はないが、人間は神様を恐れ、罪を犯すことの恐れが書かている。それでは人間は罪と一つになっている状態から、罪をどのようにして自覚したのだろうか。私たち人間の先祖はどのように罪を知ったのだろうか。罪という言葉が既にあったから、そのように(私は罪人である)自覚したのだろうか。

 繰り返しになるが前述したソシュールは、人間が単語をつくるときは「意味」と「音」を恣意的に結び付けていると言っている。そして恣意的に沢山単語をつくりたがり、発話する時には線状性(二次元的に音を一つ一つ線形的に時系列に繋げること)があるので、頭や心に浮かんだ多次元的世界を一語一語線的に発することしかできないとし、また二つの音を同時に発することはできないという特徴を規定している。

 そこで「罪」という単語を考えた場合、「シニフィアン」の視覚や聴覚での単語の音や形の認知的側面では、多数の人の合意あれば極端に言えば視覚や聴覚から入って来る音や形は何でもよいということになる。そこで、「シニフィエ」での意味としての「罪」を、前述したお父様のみ言「自分の体と一つになっているので、自分は大便を汚く感じないのです」に引き付けて見れば、人間始祖は堕落したために天使(後に悪魔となりサタンと呼ばれる天使ルシファー)と一つになった(血縁関係であり、愛の関係による一体性を意味する)状態にあるため、一つとなった状態では客観的に罪を自覚出来ないことになる。であるなら当然そのことを教えてくれた存在が太初からあったとみるのが妥当である。その存在こそが創造主である神様であり、神様以外に教えることができる存在はおられないと結論付けることができる。神様以外で教えることができる太初からの存在がいるとすれば当事者である天使長ルシファーであるが、当然教えるわけがなく、むしろ天使長ルシファーと最も近い悪魔に魂を売った者達を通して人間を地獄に引きずり込んできたのが現実だ。

 人間が罪の自覚にいたる詳細なプロセスまでは今ここで明らかにはできないが、確かなのは「罪」という単語が人類歴史の太初からあったわけではなく、「シニフィアン」としての単語が決められる遥か以前に人間の内心に何か本来的な、中心的な状態から外れているような、神様との齟齬感(そごかん)、違和感なのか何か後ろめたさのような感覚があったに違いなく(創世記3章10節)、聖書が編纂される以前は「罪」はギリシャ語で「αμαρτία的外れ」を意味する単語が当てられていた。

 私は人間の「罪」の自覚あるいは知覚は、二性性相の「差異」を使った神様からの能動的な働きかけによるものであり、太初から神様の人間に対する明確な働きかけがあったと聖書を通して証明できると考えている。お父様のみ言を分析すれば、お父様は人類歴史を「救援摂理」「復帰摂理」「再創造摂理」に分けて説明されており、「救援摂理」の主体は神様であり、「復帰摂理」の主体はメシアであり、「再創造摂理」の主体はメシアを通して救われた人達であることを明確に語られている。なので韓鶴子氏はメシアではない。神様以外で人間の「罪」を見抜くことができる方は神様と一体となっているお方、即ちメシアであるイエス・キリスト、文鮮明真のお父様以外存在しないというのが今日の結論です。

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