
この記事は2024/04/05に投稿したものです。
はじめに
文鮮明師の言の一部を</b>私なりに「幸せ」に引き付けて解釈し簡単に要約すれば、本来人間は主体的に自由に人生を有意義に満足して生きることができた。心の在り様そのままの人生を生きたとしても、心に瑕疵(かし)が無く、良心の呵責が生じなかったと。更に自身の生き様自体が、神様の喜びの対象となり、神様の喜びの波動が自分自身の最高の喜びになり、まさに神と人が一体となった歓喜に満ちた人生を生きることができたと、このような趣旨のお話を何度もされておられる。人知をはるかに超えた人生観である。
文鮮明師の七男の文享進牧師(以下文牧師)は父である文鮮明師から後継者、相続者として推戴され上述した生き方を体現されている方である。文牧師が語られる宗教哲学を背景とした多くの教養は、文鮮明師の理念を紐解くうえで私も多くの示唆を受けている。文牧師は宗教哲学的教養と共に、卓越した行動力で多くの若者たちを指導している。当ブログで掲げている「IRON ROD」は、文牧師の精神とそれに基づく行動の象徴であり、私もそれに近づきあやかりたいと掲げた「おまじない」である。
幸せって何だろう What is joy?
ある人は、人生を考える上で二つの「M」を提唱されている。一つは「人生の意味meaning 」と二つ目は「人生の目的mission」である。私は神様の創造の目的を知っている立場から、敢えてそれらにもう一の「M」をつ付け加え人生を考えることにした。それは神様から与えられた生命を全うする上で「人生の意味meaning 」と「人生の目的mission」を成し遂げるための心身一体のための動き全般を含めての「motion」である。恐らくこれを人生の中でそつなく行うことができれば幸せを掴むことができるだろう。
保守思想家西部邁氏は、主体subjectの原義は<b>「神様のsubとしての人間存在から来ている」</b>と説明をされていた。そこで私は、<b>人が真の意味で主体的になれるのは神様のsubすなわち神様と一体化した時であると解釈した</b>。哲学において「主体subject」の語源「subjectum」は、アリストテレスの基体「hypokeimenon」であり、<b>質料、形相、両者の結合体、属性の担い手、判断の論理的主語等を意味し、中世では認識の外に実在するものととらえられていた
幸せを哲学的な思考で表現すれば、神様のsubとして神様と一体となれば今のささくれた世の中を主体的に能動的に生き生きと、決して停滞することのない喜ばしい人生を生きることができる。
私は文牧師のように実の息子ではないが、文鮮明師を心から愛しており父と呼んでいる。こんな私でも神様につないでくださったからだ。そのためにご苦労されたことを心の痛みまで決してすべてではないが知っているいるので、私にとってはその価値は計り知れない。
全ての人は幸せに生きられる
以下の動画はYoutube「ひすいこたろうの名言セラピー」さんの番組で、エコビレッジビルダー山納銀之輔氏を紹介しているものだが、「幸せ」を考える上で大変参考になるのでご紹介いしたい。尚掲載ビデオは切り抜きだが、全編に関心のある方は「ひすいこたろうの名言セラピー」さんの番組を見て頂きたい。
エコビレッジビルダー山納銀之輔氏は、若い時に起業し会社を成功させてゆくが、実際会社を経営してみて分かったことは、そこに人生の本当の目的が無かった。そして多くの挫折と失望の只中にあって自殺をしてしまうことになり、臨死体験を経験する。
彼は臨死体験を通して人生の舵を大きく切り幸せを掴んだ。その生き方とはありのままの自分を生きることだと彼は言っているように聞こえる。私は<b>幸せとは神様が私をつくられたそのままの人生を体現するときに得られると確信している。
文鮮明師の言では、今は、私たちが望めば神様と直接対話できる時代だと言われて久しいが、今改めてそのことを実感し、良き時代の訪れを心から感じる。
私は私であることを選ぶ
ルカによる福音書15章1節~7節 10節【新改訳聖書2017】
私は私を選び私の人生を歩む。何故なら神様が私を探し出し、悔い改めた私を抱いてくれ、人生の幸せを導いてくれたことを確信しているからだ。
人は必ず死を迎え、神様の御元に行く。文鮮明師は人は60歳を過ぎれば神様の御元に行く準備をしなさいと言われた。人は死を避けることは出来ない、しかし残念ながら<b>人は必ず死ぬという真理の臨場感に遭遇しなければ、死を肯定的に受け入れ人生の意味と正対しない。
私と私の家族は幸運にもキリストによって神様に繋がることができた。<b>真の幸せは神様と一つとなって得ることであることを確信をもって言える。皆様がキリストに繋がることを深くお祈りする。

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